森高千里は嫌いだった。
南沙織さんは我々時代のアイドル。なんたって日本中の美女を激写してきた故篠山紀信さんが選んだ女性なのだ。デビュー曲の「17歳」は大切な一曲。それをなんだ、ミニスカート姿で、変なビートにのせて歌いやがって。ふざけるのもいい加減にしろ。こんな印象だった。
が、ある日いつものようにジョギングを終えたとき、ちょうど多摩川大橋に夕日が沈みかかっていた。ウォークマンで聴いていた歌謡曲番組で「渡良瀬橋」が流れる。赤く染まる空を眺め、多摩川大橋でみる夕日は好きだと改めて思い、「渡良瀬橋」は素敵な歌だと感じる。「渡良瀬橋」は、森高千里さんが、実体験を元にしたのではなく言葉の響きのよい川や橋の名前を地図帳で探して選び作詞したという。足利市にある。行こうと思えばいける距離だ。でも「多摩川大橋で見る夕日を、あなたはとても好きだったわ」ですませていた。
昨年9月末で定年退職して作ったやりたいことリスト。三番目に「渡良瀬橋で夕日をみる」と書いた。この先また就職するかもしれない。今は自由だ。勝田マラソンの翌日の天気予報は晴れと知って思い立ち、日曜日夜の足利のホテルを予約した。これは直前の木曜日の出来事である。

土曜日の朝、品川から特急に乗って、水戸で荷物をコインロッカーに入れ、大洗に着く。突然渡良瀬橋を思い立ったが、勝田マラソンにエントリーしたのは、大洗に行きたかったからである。海を見たかったのだ。大洗海岸に向かって歩く。大洗磯前神社に横というか裏から入り、正面にまわって目の前に広がった鳥居越しの太平洋は圧巻であった。波打ち際まで降り、寄せては返す波をしばらく見つめていた。
歩きながらウォークマンでは、FMシアター『チカちゃんのオルゴール』を聞いていた。最初は10歳の子供が何か事情があって施設に預けられてしまう物語のようであったが、実はそうではなく、認知症で施設に預けられた人の視点で描かれた物語であった。とても怖い。認知症とはこうなのかとも思うし、実際に認知症になった人が書いたわけではないのだから、ちがうのかもしれないとも思う。

もともと私の生家は蒲田の町工場であり大洗にも工場があった。その工場ができたときに、当時社長であった祖父と海水浴に大洗海岸に来た。中学生以来なので約50年ぶりとなる。同居していた祖父と祖母は90歳過ぎても認知症にはならなかった。私の父も認知症ではなかったが、両脚の大腿骨を順に骨折して2回リハビリ後自宅での生活は難しくなり、家から歩いて3分のところに新築された老人ホームの一番目の入居者になった。一方母はほとんど動けないにもかかわらず、自宅での生活に固執し我々を困らせ私は結構きつくあたった。そしてようやく施設に入ることに同意し、手続き直前に自宅で亡くなった。最後まで不動産業を、といっても振り込まれたお金を移す指示を私にしていただけであるが、金額を決めることはできていたのでやはり認知症ではなかった。施設に入ると納得したときに、私の眼にはもうあと何日も生きられないと映り、そのとおりの結果になった。
ラジオドラマを聞き過去を振り返るうち、自分も確実に死へ向かっていると実感する。もう時間は有限でない。不動産業を続けていれば、まもなく貯金は尽き、生きていくのもままならなくなりそうだ。親ガチャ的には、一見よさそうで実は最悪のようにも思う。先祖代々の土地といっても自分が稼いで獲得したものではない。賃貸マンションも、私の代への相続税対策のためだけのものである。相続税対策とは相続税を後払いにするだけのもので、現状は日々の生活費のたしになるどころか、自分の貯蓄をつぎ込まないと成り立たない。直感的には全部捨ててしまうのが一番よさそうなのである。
昨年9月末で定年退職して作ったやりたいことリスト。二番目に「キャッシュフローの作成」と書いた。もう少し具体的にいうと、現在私が所有し管理している賃貸物件について、現状のキャッシュフローを確認し、この先20年ぐらいまでの、損益計算とキャッシュフローをシミュレートしてみた。同族会社の法人税や、私個人の所得税を概ね算出できる程度の知識を習得し、ここ数年で実際にかかった修繕費や、大規模修繕工事の予定などを調べ、この先どうなっていくかを予想してみたのである。専門外のことだらけで専門用語には慣れないが、クリエイティブなことではなく難しくはない。その結果直感的に思っていた以上に悲惨な現状が定量的に明確になった。
賃貸マンションを建設すると相続税対策になり所得も得られると建築会社から勧められて今に至っている。これは必ずしも嘘ではないが、大きな落とし穴がある。建築当初は募集には困らないし、ものが壊れたりしないので余計な出費はない。ここまでは簡単にわかること。実際に問題となるのはそのあとのことなのである。
銀行からの借入金返済額は毎月一定であり、その中で経費計上できる金利部分はだんだん減り、経費計上できず出費だけする元本返済部分は増えていく。新築した建物や設備の減価償却費は当初は一定額であり、あるとき減価償却期間は終わる。減価償却費とは初期に投資した金額を耐用年数で割った仮想的な金額なのであり、実際に出費する金額ではない。その仮想的な金額は支出していないが経費扱いになる。
このことから何が起こるかをごく簡単に説明すると、新築当時は大きなキャッシュ収入が得られていたとしよう。しかし、家賃収入と銀行への返済金額が毎月一定であって、日常的な管理費や修繕費もほぼ同額だけかかる状況がなにも変わらなくても、年月が経過すれば経費にできる借入金の金利分が減ってしまう。建物付属設備の減価償却期間は10年とか15年のものが多く、減価償却が終わった瞬間にお金の出入りが変わらないのに経費にできる減価償却費が減るので課税される所得が多くなる。つまり設備の減価償却が終わると所得税が増える。私の現状は黒字なので所得税がかかり、利益より所得税が高額になるので、税引き後にキャッシュが減ってしまうのである。しかも建物は経年劣化していくので、日常的な修繕費かかかるようになり大規模修繕も必要になってくるため、出費が多くなっていく。
また私は同族会社の法人を持っていて、この会社は空き室が出来たときのバッファーの役目を果たす他、所得税率より法人税率の方が低いので、会社に利益を集めることで節税にはなっている。実際優良会社で毎年確実に手元に現金を残している、つまり純資産が増えている。その結果株価が上がっている。これはよいことのようにも思えるが、実は株主が私一人のため、個人としては使えないのであるが資産なので、私が死亡したときの相続税の負担がどんどん大きくなる。しかもその株は非上場なのだから現金化できない。今のうちに贈与しておこうとすると贈与税がかかる。不動産経営業を法人化したほうが税率が低いので税金が少なくて済むのは事実であるが、多少の誤差はあっても、結局は納税を先延ばししているだけである。会計事務所の税理士さんに聞くと、すべての節税対策は納税を先延ばししているだけであるとのことであった。先延ばしできればキャッシュフローが改善される利点はあるが、節税などという上手い話は違法行為を除けば無いと思ったほうがよい。
この仕事を初めて、違法行為を平気で勧めてくる人が多くいることも知った。最初はわからずに税理士や建設会社の言うとおりにしたことがあるが、よくよく調べると違法行為であり、気が付いたらすぐにやめた。違法とはいっても罰則がなかったり逮捕されるようなことがない程度のことなのになぜやめるのかと言われるが、それなら論理は飛躍するが「捕まらないなら人を殺してもいいのか」と言い返し、「あなた方はそうやって生きているのだろうが、違法行為は私の生き方に反する」と常々話してきている。
シミュレーションをするため、ここ数年の確定申告書をしみじみと眺めていると、素人の私でも簡単に見つかるミスが多くある。税理士のミスのため税金を収める額が少ないとき、つまり脱税が発覚したときは修正申告して追徴金も払う。「会計責任者が行ったことで、私は知りませんでした。」で済むのは、自民党の派閥に属する国会議員だけで、ごく普通の市民の場合は会計事務所の間違いでもそれを見つけられなかった申告者本人の責任である。税理士にきくと、いわゆる地主で賃貸物件を持っている人で、税金の計算方法をわかっている人はいないし、質問されることもないという。私は特殊な人らしい。税理士の計算間違いを見つけたときには、間違いは誰にでもあるので素直に謝って修正すればいいと言っても、変に言い訳したり逃げようとしたりするので困りものだ。素人は余計な口出しをしないで黙っていろという態度をとる人とは全面対決になり疲れる。単に法律に沿って計算するだけなのに偉そうにするなと、私は心の中で思っている。税金の計算方法や、申告書にある数値をどのように計算したのか質問しても、答えられない担当者もいる。税金計算プログラムに数値を入力しているだけで、ソフトでどのように計算しているのかは知らないとのことだ。これからの時代、税金計算はAIの仕事になると理解して業務にあたってもらいたい。
先祖代々の土地や建物は3代相続すると無くなるとよく言われる。シミュレーションを自分で作り実際に行ってみて、その通りであることを知った。漠然と不安なままでいるより、はっきりとだめなことがわかっただけでも事態は進展した。さらに悪いことに、いままではデフレだったのが昨今は状況が変わり、銀行からの借入金の金利が大きくなってしまったことや、修繕費が高騰していることも、不動産経営を圧迫している。
ドライに割り切れば、少なくとも3年後に不動産業を辞めれば破産は免れる。あと10年ぐらいなんとかしのげれば借入金返済が終わるので事態は一転し、孫にお小遣いをあげられる程度にはお金を残せる。途中で辞めてしまうと、土地と建物の全部か一部が、建設会社か銀行の手に渡ってしまうのだ。
明日のレース中に心臓発作を起こすとか渡良瀬橋から飛び降りて死んでしまえば楽になるなとも思うが、「80歳になったとき10kmを80分で走る」ことを目標にしている以上、この先10年以上は生きると思って考えないと自己矛盾である。まだ65歳なのだ。マラソン中に死亡したのではずっと私を支えてくれているマラソンに対して失礼だ。自殺したら私は楽になるのかもしれないが、それだと相続税対策で加入した保険金が下りないので残された者は大損をする。渡良瀬橋で飛び込んだら森高千里のファンから聖地を汚したやつと永遠に語られてしまう。金銭的な損失以上に自殺は周りの人におおきな精神的ダメージを与えるので、なにがあってもだめである。赤字だろうが破産しようが、生きているだけで価値がある。解決策はこれからであっても、このように定量的に問題点がはっきりして腹を据えたのは、勝田マラソンの数日前であった。
私の父親は、周りの地主などから聞いて、建築会社のいうように上手くはいかないと思うが、他に手だてがなく、仕方がないのでマンションにしたと書き残していた。寄せては返す波をみながら、私にはいやおうなしに親離れしなくては生きていけない時が来たのだと思う。大洗荒磯神社で引いたおみくじは大吉だった。神社は神頼みするところではなく、神に誓うところだ。過去は過去のこと。これから自分らしく生きていこうと神に誓う。過去を振り切るには大洗がいいと思っていたのである。

食堂に入ってみても満席、次の店は料理をだすのに一時間かかるとのことで、この地で昼食をとるのはあきらめ、遠くに見えている水族館まで歩く。
水族館に2300円の入場料を払ってまで入る気はしないが、外にフードコートがあり、海鮮丼を食することができた。缶入りのクッキーをお土産に買い、なんと100円のバスで大洗駅に戻れた。あてもなく14kmも歩いてしまい、この先どうなるかと思っていたが、意外と簡単に帰れたのであった。ふと太宰治の富嶽百景に出てくる、道を戻ると落とした財布が見つかる場面が頭に浮かぶ。

水戸駅からホテルまで歩く。遠い。ようやく着いた水戸第一ホテルはずいぶんと古めかしいだけでなく、私の予約はなかった。そこは本館で、じゃらんからのメールには新館とあった。1kmほど駅のほうに戻る。新館というのだから少しは奇麗なことを期待したが、着いたホテルは同じように古めかしい。出張で全国の工事現場を回っていたころの昭和のホテルのようだ。かろうじて部屋にはユニットバスがあったが、これはあとから取り付けたものに違いなく、廊下には共用のトイレと浴室がならんでいた。TVでバスケ中継を見ようとするもBSは映らない。
目の前にLAWSON、近くにガストがあり、夕食はガストにした。共用の浴室は一人で入るには十分の広さがあり、ゆっくり浸かって明日に備えた。今の若い人たちではこのホテルには耐えられないと思う。勝田マラソンの3日前でも空いていた理由がよくわかった。贅沢はあまりできないが、せっかくの旅行なのだからもっと高いホテルでもよかったと後悔した。


ホテルの悪口ばかりになってしまったが、ここは古くからあるのだろう。観光地の立地条件としてはとてもよく、窓からの景色は大きな池が目前に広がり、遠くに偕楽園も見え、とても素敵だったと付け足しておく。
日曜日の朝、ホテルの朝食は予想以上に貧弱だった。パンを2個食べたが、これだけでは42kmも走れないと思い、昨夜夕食をとったガストでモーニングセット(ごはん大盛)を食べた。最近のホテルの朝食のようで美味しかった。これでフルマラソンモードに入る。

荷物を水戸駅改札内コインロッカーに預け、勝田駅に到着。前回のエントリー時、下見をかねてヴィッキーズ対日立ハイテククーガーズ戦を見に来た時に、駅前にヴィッキーズ選手が乗るバスが止まっていた。私に気が付いた本橋選手が車内から手を降ってくれて、その流れで多くの選手が次々と私に手をふってくれたことを思い出す。本橋選手はその時一番好きな選手であったが、この瞬間から私の推しに変わった。まだ無名であり、その後日本代表に選ばれ、アジアカップでMVPをとり、東京オリンピックで銀メダルをとるまでの選手になるとは、思ってもみなかった。
そろそろ代表は引退かと思っていたが、昨年12月の試合では往年の動きを見せた。試合後の交流の場で、「まだ結構動けるじゃん、と今日の試合見て思った。」と本人に直接言うと、無言で微笑みを返してくれた。このときスマホのカバーにサインしていただいた。2月9日からのパリオリンピック最終予選のメンバーに選ばれている。現役の日本代表選手と、このようにごく普通に会話できるのが女子バスケの魅力である。もっともこれは私の特技のようで、まわりのファンからは、「よくそうやって選手に話しかけられますね」と言われる事もある。図々しくみえるのだろう。私を「バリーさん」と呼んで下さる選手もいる。こうして勝田駅前の思い出を振り返るうちに、会場に到着した。
私はもはや幽霊部員ではあるが、参加しているランニングクラブの「つじかぜアスリートクラブ」の陣地へ行く。会館の前で、古くからのランニング仲間の方と記念撮影なんかもする。コロナ禍以降ずっと単独参加だったので、こういうのは久しぶりだ。
準備をしてスタート地点に行く。ちょうどホームセンターの前なので、いけないとは思いつつほかのランナーにつられてトイレを借りる。スタートブロックはF。スーツ姿のランナーの隣に並び、少しお話しする。これこそ自分もいつかはやってみたい仮装。ちゃんとクリーニングに出したスーツで、ネクタイを締めている。Uber Eatsのロゴをカラーコピーした紙を貼った鞄をしょっている。さすがに足元は黒色っぽいランニングシューズであった。このランナーとは10kmあたりまでほぼ同じ位置で走った。「北風がビュンビュン吹いているぐらいがちょうどいい。今日は暑い。」と汗を拭っていた。普通のウエアならサブ3.5あたりで走れそうなフォームだった。
コースは田舎道で適度に沿道の応援もあり、長年続いている大会らしさがあふれている。10kmすぎても調子が上がらず、キロ5分半で走っているがいつ失速するかという感じ。下っては上る坂が何度も襲ってくる。少し前を走っている阪神青柳ユニフォームの女性は下りは得意だが上りは苦手のようだ。青柳には負けたくないと対抗意識は持つが、私はこのような繰り返す坂道に苦手意識があり、いけるところまでいければよい。34kmあたりまではペースを保つことができた。
35kmを過ぎて、右股関節のいつものところが痛みだし、右の内転筋も痛い。もう無理は出来ない。ペースを落としてもサブ4ではゴールできそうなので、とにかく止まらずに前に進むことだけ考えた。40kmでは、知り合いの女性の声援を受ける。彼女のペーサーとして5時間切りを目指して一緒に走ったあの日のペースと同じぐらいのスピードしか出せない。大勢のランナーに抜かれよれよれでゴールした。ネットでサブ4。今日の体調では出来すぎの結果であった。
つじかぜの陣地に寄ってから一人で帰る。水戸駅のコインロッカーで荷物を出しトイレで着替えて電車に乗る。電車は少し遅れている。友部での乗り換えに間に合わないと、長時間待つことになりそれはいやだ。乗り継ぎのため水戸線の発車は待ってくれるので急いで乗り換えるように車内放送があった。乗り換え客は一斉に早足で階段を上っていく。私も重い荷物を抱えて必死に水戸線に乗り継いだ。約1時間後、今度は小山駅で乗り換え時間が短く、通路を頑張って急ぎ両毛線に乗る。それから40分ぐらいで足利駅。電車に揺られこの街まで来た。
ホテルはルートインで、昨晩とは大違い。ランニングシューズを脱ぐと、左足小指のあたりは血でどす黒くなっていた。
もう一度シューズを履きたくないが、夜景を見たくて夜移動したのだからと思い直して足利織姫神社へ向かう。228段の階段はきつかったが、ライトアップは想像以上に美しく、何枚も写真に収めた。近くにスーパーがあり少し食べものを買い、ホテルでコインランドリーを回している間に夕食にした。昨晩はBSが見られないTVだったが、ここではwowwowまで無料で見られ、全豪オープンテニスの決勝を見た。

月曜日の朝、ほとんど筋肉痛は感じない。天候は快晴。さっそく渡良瀬橋歌碑に向かう。iPhoneのナビで着いたところからどうやって川に出るのかと思うと、歌碑はこの上ですと貼り紙と螺旋階段がある。階段を二周まわって広がった景色に圧倒される。事前にネットで見たのと同じ景色が広がっている。空が広い。

ボタンを押すと曲が流れる。あとは日が落ちるのを待つだけだ。でもそれは7時間後。iPhoneに向かって、昨日の完走記を話して書こうかとも思うが、まずはもう少し自由になりたいので、東武の足利市駅に行き、コインロッカーに荷物を預ける。とても暖かいので、カーディガンを脱いで一緒に入れる。夕方寒くなって、河原で風邪をひいちゃいましたとなれば、それはそれでよい。一眼レフを首から下げ、iPhoneのナビに「床屋」と入れて、次の目的地に向かう。
そこには、確かにあった。なんども受話器をとった。電話をかける相手はいない。自分の携帯をならす。若いころはよく公衆電話で話したものだ。


通りがかりのおばさんに声をかけられ、返事をする。
「この公衆電話の写真を撮りに来たんです。」
おばさんは話をやめない。
「このあとはどちらに?」
「八雲神社に行こうと思っています。」
女性の家に電話するときの緊張感が懐かしい。あのころ電話した相手は皆おばさんになっているんだろう。自分はおじさんを通り越してもうおじいさんだ。サブ4で走れるうちは、せめておじさんでいたいと思う。マラソン仲間の女性がおばさんにならないのは、走っているからにちがいない。森高千里がおばさんにならないのはなぜだろうか。iPhoneのナビに「八雲神社」と入れて、電話ボックスをあとにする。

八雲神社は近くに複数ある。まずは新聞記事の切り抜きにあった神社へ行く。ごく普通の神社で、床屋とは違いここが森高千里さんの渡良瀬橋の歌詞に出てくる八雲神社ですなどという貼り紙はなかった。数枚写真を撮って次の八雲神社へ向かう。その途中には先ほどの電話ボックスがあり、再度写真に収める。2番目の八雲神社は、昨晩訪れた足利織姫神社の前にあった。古い作りで森高千里がお参りするイメージがわかない。せっかくなので足利織姫神社の階段をもう一度のぼる。関東平野が見渡せるとの触れ込みで、たしかに景色はよかった。
あとは、夕暮れを待つだけになったが、まだ時間がたっぷりあるので、足利学校というところに向かう。行ってみたら昨晩泊まったホテルルートインの前だった。ゆっくり見学した。建物に入るたびにランニングシューズを脱ぐのが面倒であった。人はまばら、フルマラソン翌日の観光そのものの風景であった。

JRの駅前に戻りはなまるうどんで昼食。まだまだ夕日を見るまでに時間があるので、近くのお寺を参拝する。鎌倉時代の造りとの触れ込みだが、そういうことはよくわからない。



ほかに見るところもなさそうなので、再び渡良瀬橋の歌碑に向かう。するとそこには人だかりができているので、しばらく離れたところで立ち止まり、一群が消え去ってから近づき、ボタンを押して曲を聴く。日は高く、あと2時間は夕暮れにならない。どこで夕日を見るか場所を探す。土手の川側には昔多摩川にかかる丸子橋にあったサーキットの跡のような段があり、一番上に座りここでよいだろうと決め、しばらく座って川の流れをみていた。もってきたおやつは食べつくしてしまい、ペットボトルのコーラも飲み干してしまった。
いったん河原を離れ、メイン通りに戻る。昨晩夕食を購入したスーパーにはイートインがあり、自動販売機でコーヒーを飲む。あまり美味しくなかったが、室内で時間をつぶせて助かった。自動販売機でペットボトルのお茶を買い込み、大洗で歩きながら聞いた『チカちゃんのオルゴール』をもう一度聴く。話の筋がわかった上で改めて聞くと、認知症の恐ろしさと認知症になってしまった本人の幸せがみごとに描かれていた。でもこの話に引っ張られてしまうと、せっかくの渡良瀬橋の夕日を楽しめない。ウォークマンを音楽に切り替え、「渡良瀬橋」を繰り返し聞く。
太陽が橋に近づく。夕焼けで空が赤くなるのを期待していたが、地平線までは距離があるため、ちょっと赤みががって来るだけだ。土手の上から、橋げたを通過していく夕日の写真を何枚も撮った。太陽を直接撮影するので逆光そのものになり、フレアやゴーストが出てしまう。これを出さないように撮影するにはどうすればよいのかとなるが、多摩川大橋で練習してきたので大丈夫だ。勝田マラソンでかけたサングラスを通してファインダーを覗くようにして、自分の眼も多少であるが守る。

このサングラスは新調したもので、フルマラソンで使うのは勝田が初めてであった。ちょっとこめかみがきつい。ふるさと納税の返礼品なので、サイズがピッタリでない点は我慢する。2013年の東京マラソンで新調したサングラスは、レース中に歩道に投げたあと戻ってきたが、その後使うことはなく、高橋尚子が宣伝していたZoffのものをほぼ10年使ってきた。それがついに壊れてしまい、ふるさと納税にあったので購入したのである。サングラスといっても、直射日光を見るためのものではないので、なるべく見つめないようにした。

太陽が橋げたと地平線の間に入ると、河原の草がオレンジ色に光ってくる。カメラの設定をいろいろ変えて何枚も写真を撮る。渡良瀬橋で見る夕日は、橋の上からみている情景かもしれないので、橋をくぐって西の空だけの夕日も見た。
太陽と稜線が接してから太陽が沈むまで2分間。このわずかな間に、渡良瀬川の河原に降りて、流れと、広い空と、遠くの山々と、夕日がきれいな街を、ファインダーを通さず自分の眼で見ることも忘れなかった。きれいな写真を撮ってインスタグラムにアップするためにここに来たのではない。肉眼で見つめた目の前に広がる景色は自分だけのもの。自分の眼で見るためにここに来たのである。
日が沈み、土手の上を足利市駅に向かって歩く。少し歩いては振り返る。雲一つない空にブルーモーメントが近づいてくる。私は意を決して土手を降り、もう一度渡良瀬橋に向かって草むらを歩く。暗い。絞りを開け、ISOを大きくし、手振れしない限界までシャッタースピードを落として、青い空に浮かぶ渡良瀬橋をカメラに収める。スマホのほうがうまく撮れるかもしれないと思い、そちらでも撮影する。寒い。

夜景用の単焦点レンズは、昨晩の足利織姫神社までは生きていたが、今朝見たら鞄の中でばらけてしまっていて使えない。実は望遠レンズも持ってこようとした。が、そうしてエスカレートしていくと荷物が多すぎて、マラソンのついでに観光するはずが、観光のついでにフルマラソンを走ることになってしまう。目的は写真撮影ではない。写真が無くても自分の眼でみて記憶に残せばそれでいいのだ。
足利市駅からりょうもう号に乗る。駅前で買ったパンを食べ、ひと眠りすると、電車はスカイツリーの近くを走っていた。浅草から銀座線で上野駅へ。京浜東北線に乗り換え、普段の生活空間に戻る。大洗海岸の波と渡良瀬橋の夕日を思い出したりするが、勝田の35kmで内転筋が痛くなったことはもう忘れていた。矢口渡駅を降り、歩いて自分が所有する赤字マンションの一室に帰宅した。
なんども悩んだ。だけど私はここを離れて暮らすことはできない。
勝田マラソンは、覚悟を決める旅だった。
(了)